昔から食が細く、痩せ型の子供でした。
小学校高学年のころ、姉がいる友達やキッズ向けファッション誌から「ダイエット」という言葉を知りました。
他人からの目を意識することは ”オトナの女性” に近づくように感じられ、私には甘美な響きでした。
3月生まれで周りの子より身長も低く、早く大人になりたい気持ちが人一倍つよかったせいかもしれません。
「チョコばっかり食べたら、太っちゃうし肌が荒れるんだよ!」
「この脂取り紙、めっちゃいいって!」
などと容姿を気にすることを、子供から大人に昇る階段のように感じていました。
中学生になると、「痩せていることが良いこと」は私にとって疑う余地のないものさしになりました。
自信も、取り柄も、夢中になれるものも無かった中学時代、痩せていることだけは人から羨ましがられる要素だと認識していました。
でも、もっともっと細くなりたかった。
自分より細い子を見ると、嫉妬に似た焦りの感情が生まれました。
「充分細いのに」「もう少し太ったら」と言われながらダイエットサプリを飲むことは、自分の美意識が高い証拠のように感じていました。
たぶん、痩せに固執している自分が好きでした。
そんな10代のころ食欲が止まらなくなり、気がついたら当時の通常体重から17kg増えていました。
身長は今と同じです。
あと100gで十の位の数字が変わるときに、中学生の私が未来の自分に宛てて書いた手紙が出てきました。
そこに「OOkgを越えていたらダイエットしなさい!(笑)」と書いてあったので、その数字を大幅にオーバーしていた私はダイエットの決心をしました。
体重を減らすことは苦しさよりも楽しさが優りました。
自分の体でありつつ自分の気持ちを満たす対象として、体重という数字を扱っていたと思います。
その時期は体重以外はなにも思う通りにならず、食べないことで結果が出る体重管理にハマりました。
朝晩の記録をするたびに減っていく数字は、当時の私に自己効力感を与えてくれる唯一の存在でした。
私の場合、一人暮らしを始めたことで身体へのコントロール欲求が低くなりました。
自活で自分の生活をコントロールすることは、当時の私にとって過度なダイエットに代わる一番の健康法だったのだと思います。それでも、「痩せている方が良い」という価値観は変わりませんでした。
20代のころ働いていたクリニックでは、痩身というニーズに、内服薬、脂肪溶解注射、エレクトロポレーション、高周波で引き締めるマシン、マッサージ用ジェルなどを売っていました。
脂肪の吸収を抑制する内服薬はナースのあいだでも人気で、飲み会の前には皆こぞって飲んでいました。
この時期は「スリムisベスト」を信じ、他人の体型に関して私が最も思い上がっていた時期です。
健康な人なら体重は食事で自己管理できる、痩せない人は努力しない人だ、と内心で断罪していました。
ルーマニアのジャンクフード税やデンマークの脂肪税、フランスのソーダ税のように、日本にも肥満税を導入したらいい、痩せようと努力しない人が肥満で生活習慣病になりやすくなる医療費は自己責任で払うべきだ、太らないように食習慣を意識して暮らしている私が負担するのは不公平だ、とも思っていました。
本当に、傲慢で、短絡的で、視野の狭い人間でした。そんな私が目を覚ましたのは、二つのできごとがきっかけでした。
一つ目は、10代前半の子供が痩身を申し込み、母親と来院したときです。
ドクターの問診で、施術は必要ないから気になるなら筋トレをしよう!と説明されて二人は帰っていきました。
診察室で問診に立ち会っているあいだ、その子がどうしても痩せたいと訴える姿とかつての自分が重なりました。
私もそうだったから気持ちがよくわかるという納得感と、この子が苦しむ「スリムisベスト」な社会を支える側に自分がいるということの違和感が同時に湧きあがり、これまでの価値観が崩れていくのを感じました。
二つ目は、友人が次々と妊娠出産して引け目を感じたことです。
「彼女たちは出産して社会のためになっていて立派。しかし、私は子供を作る意思はない。つまり、私は社会の役に立っていない?」
と考えてしまったとき、あくまでも自己肯定するために、「社会のために人がいるのではない。人が集まった結果、社会がある」と考えることにしました。
すると、内心とはいえ他人に(肥満税払えばいいのに)(生活習慣病は保険適用外でよくない?)と、納税を懲罰かのように断罪していたことの勘違いや、自分は誰の助けも借りずに育ち、暮らしているかのようなひどい思い上がりに気がつきました。
私は自分を上位に位置づけた気になれる「スリムisベスト」のものさしを失うまいと必死にすがり、他人のことまで勝手に測っていただけでした。
太っていても痩せていても外見の指摘は良くないという意識から、婉曲表現として「健康的でない」という言葉が代わりに用いられることがあります。
審美ではなく健康として・医療として身体への悪影響を心配している、という立ち位置です。
プラスサイズのモデルとして活躍している方たちのSNSにも、まるで鬼の首を取ったかのように「太っているのは不健康で悪影響だから堂々と人前に出るな」と絡む人が存在します。
健康的とされる容姿は往々にして、自己管理が出来ているというポジティブなイメージも連想します。
予防医学は「適正体重」「メタボ予防」などリスクを強調し、健康維持する努力のメリットを盛んに説いています。
しかし私たちは、同じ社会に生きるというだけで、他人に「健康リスクの低い生活」や「健康的な体型」を求める権利があるのでしょうか。
健康上の問題にも、2種類あるかのように論じられている場面があります。
自己責任が想定されるか、されないか。
障害や疾患や怪我など本人の意思とは無関係の要因で身体を自己管理できない「かわいそうな人」と、自己管理すれば健康的になれると思われる状態だが本人にその意思がない「かわいそうでない人」を分けて語ることに、どんな意味があるのでしょうか。
助ける人と切り捨てていい人を判断することは、とても危険だと感じます。
健康的な容姿、健康であること、自己管理能力。
いずれも希望したら叶うわけでもなく、誰かにとってそれらの優先順位が低くても、他人が善悪をジャッジしてよいことではありません。
健康上の問題だけでなく、様々な社会問題で他人が「自己責任」を振りかざすのは矛盾ではないか、ということは常々の疑問です。
痩せた体にも太った体にも、実際の体以上の意味付けがなされています。
特に、痩せた体や鍛えた体に付随する「努力」「自己管理」「健康」などのイメージは、社会全体に共通する価値観と誤認しがちです。
魅力を感じてもあくまで自分にとっては価値があるだけだと理解して、自分と他人の線引きを忘れないようにしたいと思います。
健康的であろうがなかろうが、努力や自己管理を現す体型であろうがなかろうが、その人の体はその人だけのもの。
「こうあるべき」という押し付けの目線を、いつの間にか他人に向けていないだろうか?
逆に、他人からの目線を内面化していないだろうか?
そんなことに意識を向けることができれば、スリム至上主義にすがらなくても良かったかも、と自分を振り返って思う今日この頃です。
20代は都内の美容皮膚科で看護師として勤務していましたが、30代で転職してWEBメディアの編集者をしています。
性別・容貌・年齢などへの社会のレッテルを剥がすために日々奮闘中。
同性パートナーと暮らしています。