30歳を越えると
どこからともなくかけられるこの言葉。
うるさいなって言えればいいんだけど
世の中そうはいかなくて。
”今の時代、結婚するしあわせもあれば
結婚しない自由もあると思うんです〜”
何度も質問されているせいか
返す言葉も定着してくる。
でも、質問者の顔は晴れない。
結婚=人生の通過点というルールの中に
私を巻き込みたいのだろうか。
今までずっと独身なのは
何も明確な理由があるわけじゃない。
なんとなく生きていたら
32歳の大人になってしまっただけ。
二十歳くらいの頃は
30手前になったら
自動的に結婚できるものだと思っていた。
現実が追いついてこなかっただけ。
別に、結婚したくないわけじゃないけれど
こればっかりは相手が必要なもの。
自分ひとりのマネジメントでどうこうなるもんじゃない。
相手の人生を巻き込んでしまうくらいなら
ひとりでいるほうが、ずっといい。
というのが、私の現時点での結論。
それに大人になって知識や知恵がつくと
手続きとか親戚とかお墓とか
いろいろめんどくさいな
という気持ちのほうが勝ってしまうのだ。
たぶん、私みたいな人はどんどん増えているし、今後もますます増えると思う。
晩婚化ってやつだ。
(晩婚さえできるか謎)
そのため、婚姻率もさることながら、出生率(合計特殊出生率)は近年低め安定を保ったまま。
国は出生率をあげようと様々な施策に取り組んでいるが、それをはるかに上回る高齢者の数。高齢社会の波はとどまるところを知らない。
もちろん、私たち世代もその波の影響を受けている。
いつか子どもは欲しいけれど、自分の人生でいっぱいいっぱい。
そんな雰囲気がうっすらと、でも確実に今の社会に漂っているように思う。
(きっと、子どもどころではないというのが、正直なところだろう。)
※1. 合計特殊出生率 は、直近のデータだと1.42という現状。
人口が増えていく最低ラインが2.1だから、人口減少にどんどん拍車をかけていることになる。
ちなみに、夫婦からふたりの子どもが生まれればよくない?って意見もあるが、災害や事故、病気などで次の世代を産むまで生きられない人の数を考慮すると、この0.1がとても大きな意味をなす。
日本では、無意識的に妊娠・出産は夫婦や家庭の中にあるべき概念だとされている。
仮に、独身の友達が妊娠したと告げてきたら
”相手は?
結婚するの??”
と反射的に思ってしまうあたり、根っこの深さを感じてしまう。
だから、結婚しないで子どもを産むことや、妊娠中にお腹の子の父親ではない男性とパートナーシップを組むことは、常識の範疇外のこととして扱われる。
仮に、私が妊娠して、独身のまま子どもを産み育てると宣言したら、周囲の皆は応援してくれるのだろうか。婚姻した上で報告する妊娠と同じようなスタンスで喜んでくれるんだろうか。おめでとう!よりも大丈夫なの?というコメントばかり寄せられるんじゃないだろうか。
それくらい、子どもを生み育てることは、様々な条件が揃わないと叶えられない上流階級アクティビティのようなものになっている気がする。
一人ひとりが輝く社会をと言われて久しいが、私たち女性が社会へどんどんと進出していく代償として、子どもを産み育てる機会が減っている。
次の世代が減っていることは、自分も自分の周りも含めてどうにかしたい問題という認識ではあるが、お金を積めばいいってもんじゃないし、パートナーやSEXにも及ぶ問題なので、やはりひとりではどうにもできない。社会も手詰まり状態なのだ。
LGBTQの人が子どもを望むということ
こんなことを考えたのは、先日とあるイベントでLGBTQに関する内容に触れたからだ。
私は普段の生活で、この分野に触れることが少ない。
したがって、恥ずかしながら情報も自分から得ようとしてこなかった。
当事者である友人も多くないし、興味がないわけではないけれど、正直なところ「まだ輪郭しか理解できていない」というスタンスだ。情報も事例も少なすぎる。
ヘテロのカップルが結婚し、妊娠・出産するのも大変な時代だが、LGBTQのカップルが結婚・育児を検討するとなると比べものにならないほどの障害をこえなくてはならない。
中でも一番高い壁は、子どもを望むことだと思う。
誤解を恐れずに言うと、ゲイやレズビアンのカップルは生物学的に子どもを授かることができない。
現代においても法律や宗教的な規則で同性愛が禁じられている国や地域があるのは、こういう理由もあるからだろう。
これを解決する方法として、今では生殖医療や養子縁組、ステップファミリー(どちらか、または双方が子持ちで再婚し、新しい家族を築くこと)があるが、日本では血縁に重きをおいた慣習や相続の問題があるため、実現できたとしても周りからの理解を得るのはなかなか難しいのが現状だ。
イベントの最中、LGBTQ当事者である登壇者が、結婚や子どものことを話している姿を見て、女性が妊娠して出産するって生物学的な問題だけれど、LGBTQの人たちが子どもを望むことって、社会的な問題に変わるんだな、と思った。
そして、社会そのものが成熟していない時代には、生物学的にタブー視されていたことは、そのまま存在しなかったことにされてきたんだろうなとも思った。
きっと、江戸時代にもLGBTQの人はいたはずなのに、文献が極端に少ないのはきっとそういうことだ。社会的に触れてはいけない領域の住人だとみなされていたんだろう。
意外に思わないで欲しいが、高齢の患者さんの中にもLGBTQの人は当たり前のように存在している。
私たちが見ようとしていないだけ、社会からないものとして扱われているだけだ。
あるゲイ患者さんが亡くなったとき、パートナーだった男性は最期の瞬間をともにできなかった。
患者本人は、ゲイであることを誰にも伝えてなかったから。
男性患者のそばで、親族以外の男性がわんわん泣いている姿は異様なものに映ってしまう。
家族や同僚に見送られる患者さんを、遠くから赤い目で見つめるパートナーの背中をさすっていた私は、あの日を決して忘れない。
カミングアウトがすべてだとは思わないけれど、誰かを失った悲しみを、自分の存在を隠さなきゃいけない環境は、やっぱりおかしい。
あのイベント以来、私自身も生物学的な「わたし」のしあわせと、社会的な「わたし」のしあわせについて、ずっと考えている。
ふたつのしあわせを両立できる人は、ごくわずかだ。
きっと、どちらかを優先している人は、どちらかに注力できないまま毎日を過ごしている。
キャリアを取った人は家庭に憧れているかもしれないし、家庭に入った人はキャリアに憧れているかもしれない。
私の場合で言うと、社会的な「わたし」はなんとかなっているけれど、生物学的な「わたし」は停滞したまま。
排卵や妊孕性(妊娠のしやすさ)にはリミットがあるのに、進捗は0。
子宮や卵巣の機能をフルスロットルで使うような機会を死ぬまでもてないとしたら、自分の臓器に対して「チャンスを与えてあげられなくてごめんね」と謝りたい気持ちになる。
こういうことを考えているうちに、生物学的に解決できないことは社会が担い、社会が解決しにくいことは生物学的に寄せてもいいんじゃないだろうか、と思い描くようになった。
話が少し飛んでしまうが、私は看護師の他に家事代行という仕事をしている。お客さんちにいって、家事をするのだ。
今までは家庭や家族の中でなんとか回してきた家事を、社会が解決するビジネスモデル。
私は家事を「仕事」として社会に提供し、お客さんはその家事をサービスとして購入する。
夫婦共働き、それぞれの両親が遠方で協力を得られない、家事が不得意なので外注したほうが早い!など、さまざまな要因が重なり近年のブームとなっている。
ただ、このブームとは裏腹に、自分で家事をし続けている専業主婦もたくさんいる。
今は働く女性がスタンダードで、専業主婦の社会的地位がおろそかになっているように感じる人もいるだろうけど、そんなことはない。
社会で活躍する夫の生物学的側面(食事やお風呂など)と自宅など環境の管理をサポートしている重要なリソースだと私は思う。
子どもを産み、育児をしている場合なんて、もはやマルチタスク神じゃないか。女性の生物学的な強みを、パートナーや子どもを通して社会に還元していて、本当に素晴らしい。
社会的な「わたし」と、生物学的な「わたし」は、いつの時代も仲が悪いように思う。いつも競い合っている。
「キャリアとお金があっても、独身だと老後が大変よ〜」
「旦那と子どもがいても、自分の資産がなきゃね〜」
もはや死語かもしれないが、キャリアウーマン VS 専業主婦の構図は、私の周りでもいまだ確認できる。
”あさみちゃん、まだ結婚しないの?
彼氏もいないなんて、やばくない?
あさみちゃんが、老人ホームで暮らしている様子が想像できる…!”
久々に会う学生時代からのコメントには嫌気がするので、もうしばらく会っていない。彼氏がいなくてやばいかどうかは自分で決めるし、老人ホームだって楽しいと思うよ、私は。
学生時代の友人が更新するSNSは、子どもとの日常ばかり。
彼女たちの世界ではそれが「しあわせ」なのだと思うし、とても素敵なことだと思う。ただ、私の住む世界の「しあわせ」はちょっと違う。
私の場合は、価値観や文化を理解してくれる友人と乾杯して飲むハイボールや、ちょっと難しいけれど自分の解像度をあげてくれる書籍や文献に出会えるととてもしあわせを感じる。人と人とが違うように、人が何にしあわせを感じるかもまた違う。しあわせに優劣があるわけじゃない。
でも、こちらにそういう意図がなくても、しあわせの感じ方が違うことを伝えると、相手は自分のしあわせを否定されたと捉えてしまうことがある。そうするとお互い疲弊するので、いつもそっ閉じする。そうやって、どんどん距離をとっていくのだ。
最近、SNSで怒ってる人や炎上案件が多いけれど、これも距離感が近いことが原因だと感じている。
突然ですが、皆さん、カレーはお好きですか?
日本人と言えば、カレーみたいなところありますよね。
でもね、私は苦手。
母のカレーも20年以上食べていない。
(グリーンカレーは好き)
理由は、阪神淡路大震災で被災したせいで1週間近く毎食カレーが続き、美味しい食べ物ではなく【災害時に食べる最低限の食事】という認識になってしまったから。申し訳ないけれど、美味しいと思えないの。
キャンプや災害でカレーしか食べるものがなければ食べるけれど、他にも選択肢はある場合には絶対に選ばない。だから、20年以上食べていない。
けれども、カレーを批判したりカレーを食べてる友人を非難したり、絶対しない。
フードコートでもカレー屋さんが入っているところが多いけれど、近くの席には座らないようにするだけ。
私はオムライスやラーメンを選ぶだけ。
みんなこうやって距離を取ればいいだけなのに、カレーが襲ってくるとか、カレーを食べさせられると勘違いしているせいで、批判したり攻撃したり、時たま自爆したりしてるんだろうな。
だから、必要なのはカレーの存在を受け止めつつも、カレーとしっかり距離をとること。
受け入れなくていいから、受け止める。
だって、カレーが好きな人、多いもんね。
それはわかるよ。
ただ、私は苦手なので食べない。
一緒にたべにいきましょう!というお誘いは、丁重に断るだけ。
同じように
20代で子ども3人を育てている女性も立派だと思うし
(私は出産経験がないのでなかなか理解しにくいけれど、寄り添うことはできる)
奉仕の精神が強く、残業大好きな医療職は居るし
(私は他にもやりたいことがあるから残業好きじゃないし奉仕の精神乏しめだけど、そういう人たちはある意味、医療職の鑑だと思う)
モテることが生きがいという女性も、すごいと思う。
(モテることに縁がないため、ここはちょっとわからない部分が多いかもしれないけれど)
まずはいろんな選択肢を、生き方を、受け止めてみよう。
それから自分ごとにして考え、受け入れるかどうかを判断できれば、選択肢を競わせたり、優劣をつけることも減っていくんじゃないかな。
社会的な「わたし」と生物学的な「わたし」が競い合うことをやめて、手を取り合う日はもうすぐ。
※1.(以下、厚生省のHPより引用)
「合計特殊出生率は「15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもの」で、次の2つの種類があり、一人の女性がその年齢別出生率で一生の間に生むとしたときの子どもの数に相当する。」
ライター:ナースあさみ
編集:辻愛沙子
看護師、保健師。
大学病院で6年勤務した後、民間病院の病棟看護師として勤務中。臨床経験は10年目。
数年前から家事代行サービスでご飯の作り置き、ブログやnoteの執筆をスタート。
作り置きに伺ったお宅は延べ250件、作成した記事は1000を超える。
好きな食べ物は焼き鳥と餃子(B級グルメ万歳!)小さい頃から有元葉子さんと栗原はるみさんの書籍がバイブル。
その人らしい生活といのちを支えることがモットーです。
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